2月のある週末、今日はここ、京都駅前からスタートする。京都市内でちょっとした用事ができたので、それに合わせて神社仏閣も巡ってやろうというこんたんだ。
この日は天気も良くて気温もやや高め。気持ちよく走ることができた。
まずは京都タワーから東へ行き、そこから北へ上がっていく。
▲京都駅の北東にある旅館街。ここを北へ抜ける。
▲右手には東本願寺の飛地境内の渉成園。しかしスルー。
▲渉成園からほんの少し北へ行くと…
▲ありました。ひとつ目の目的地、文子天満宮。
文子天満宮
京都で学業成就といえば、北野天満宮。いわずと知れた菅原道真公を祀った天満宮、天神社の総本社だ。
ところが、その北野天満宮の前身となる神社があるという。それがここ文子天満宮だと言われている。
▲神社の前には発祥の神社と明記されている。
この神社の由来はこんな感じ。
・大宰府に左遷された道真公が亡くなる。
↓
・没後、道真の乳母であった多治比文子がお告げを受ける。
↓
・道真「オレっちを右近の馬場(今の北野天満宮あたり)に祀ってくんね?」
↓
・しかし文子は貧しく社殿を建てれない。
↓
・文子「無理だし。とりあえず家に祠でも作っとくわ」
というのが、文子神社の起こりらしい。ま、何をするにも多少のお金は必要だよね。
すべてを投げうって啓示を全うするっていうのも悪くないけど、自分のできる範囲で対処するっていうのは人間味あって何かいいよね。
▲こいつが文子。なんか藤子不二雄Aが描くキャラっぽいな。
▲道真が左遷の途中に座った石。マジか。
▲日本人らしくお金が置かれている。ちょっと座ってみたかったなぁ。
▲道真公を祀っているのはいいけど、このパネルはいるのか?
▲本殿の裏には成就社がある。合格したら御礼詣りにゴーだ。
多治比文子は巫女だったようで、社殿を建てられなかったのは当時の身分的なところも原因としてあったのではと言われている。
そういうのも含め、道真公はなんでわざわざ文子にお告げを出したのか。もうちょっと現実的な人選があったのではないか。お前、ホントに賢いのか?と疑りもしてしまう。
結局、しばらくの後、道真公のお告げ通り北野の地域に神殿を建てて、それが今の北野天満宮になったそうだ。
北野天満宮に比べると、こちらの神社はかなりこじんまりとしていて、住宅街の中にひっそりと建っている。だけど、天満宮マニアの方にはぜひ訪れてほしい神社だ。
そんな文子天満宮を後にさらに北へ向かう。
▲間之町通りから五条通りを東へ入り、室町通りを北へ。
▲御池通りに出た。
▲御池通りを西へ向かうと見えてくのがこちら。
▲平和の象徴、天下の平城、二條離宮。
▲二条城の北東から東へ入り…
▲しばらくいくと何の変哲もない公園がある。
鵺大明神
この何の変哲もない公園…休日ということもあるのだろう、豊富な遊具と適度な広さがとくに小さな子供には恰好の遊び場となっており、多くの家族連れが訪れていた。
そんな公園の北の端にあるのが、今回ふたつ目の目的地、鵺大明神(ぬえだいみょうじん)だ。
実はこのあたり、二条城も含めもともとは天皇が所有する土地で、平安時代は近くに時の天皇が住んでいたらしい。
そこへ夜な夜な怪しげな鳥の鳴き声がして天皇を困らせていたので、その鳥退治に源頼政が任命されたそうな。
ある晩、もくもくと湧き上がる黒い雲をめがけて矢を放ったところ、頭がサル、胴は狸、手足は虎、しっぽが蛇という怪物が落ちてきた。それが鵺だ。
その鵺が落ちて、仕留めた矢じりを洗ったのがここの池、鵺池ということらしい。
▲鵺大明神と書かれている。あと玉姫と朝日も祀られている3㏌1な神社。
▲石碑の立つこのあたりが鵺池だと思う。今や子供たちが無邪気に遊ぶ。
▲もはや何が書かれてあったのかわからない。うっすらと何かが彫られた跡がある。
▲こちらは井戸を模した水源。公園に住まう者がタオルを洗っていた。
実は落ちてきた鵺に止めを刺したのは、猪早太(いのはやた)という武将だと言われている。
それを踏まえ、江戸時代の学者が言うには、鵺退治の伝説は頼政がまじないのため四方に矢を放ったのが実態であるという。
猪早太の名前と鵺の姿を鑑み、「頭が猿=未申(南西)」「尾が蛇=辰巳(南東)」「手足が虎=丑寅(北東)」「猪早太=戌亥(北西)」を意味してるのではと考察している。
つまり四方を表現するために猪早太の名前を入れた、ということだ。
個人的には鵺がいたとする方がロマンがあるし、そう信じたい。どうでもいいけど、胴体の狸はほったらかしかい。
▲こちらは復元された石碑。漢文で鵺退治の伝承が書かれている。
▲すぐ隣にお社があるんだけど、何を祀ってるんだろう。
▲その社の裏には「主一大明神」と書かれた石碑が。由縁などは全く不明。
前から気になっていた鵺大明神を訪れ、目的達成とばかりに帰路につく。
帰りはそのままずっと東へ向かう。
▲堀川通りの横を流れる小さな川を横切り、東へ東へ。
▲竹屋町通りを進んでいくと、突き当りにお寺が見える。
▲革堂こと、行願寺。
今回、最後の目的地。というか、行く予定はなかったんだけど、ちょうど帰り道ということもあり寄ってみる。
行円はもともと狩人で、ある日、牝鹿を射止めたところ、その鹿が子をはらんでおり、そのことを悔いて仏門に入った、という人物だ。
日頃からその皮をまとって鹿を憐れんでいたことから皮聖(かわひじり)と呼ばれており、その流れで彼が建てたこのお寺も革堂(こうどう)と呼ばれるようになったとか。
▲立派な本堂。年季を感じる。
話はわかるし、結果、藤原道長の息子が行円を師と仰ぐようになるんだから、大きな功績を残したと言っていい。
それはそれで良いんだけど、やっぱりこの逸話に突っ込まずにはいられない。
鹿が子をはらんでなければ狩ってもいいのかとか、結局、その鹿の皮をなめした上にまとっていたのかとか、今風に言ったらエンバ行円なのかなとか。
▲扁額がたくさん飾られていてかっこいい。
実はちょうどこの時、角幡唯介氏の『狩りの思考法』という本を読んでいて、その中にイヌイットの子供がアザラシの胎児をおもちゃに遊んでいた、ということが記されていた。
ここだけ抜粋すると非人道的な行為のように思えるが、その理由がちゃんと丁寧に説明されているので誤解ないように付け加えておく。
簡単に言うと、その行為には彼らの生活環境や死生観が大きく関わっているということだ。
仕留めた獲物のお腹に赤ちゃんがいたことに悲哀と猛省を含ませるのは日本の環境や生活様式がそうさせるわけで、他の地域、民族であればそんなことは思わないだろうなと、うがった見方をしてしまう最悪のタイミングでこの寺を訪ちまったようだ。
▲このお方が行円上人。いや、すごい人だと思う。
▲境内にある百体地蔵尊。
▲こちらは七福神の石像、冬バージョン。
▲ところどころにやや荒れたスポットがあるのも魅力のひとつ。
革堂は日本最古の七福神巡りと呼ばれる「都七福神巡り」の一社になっている。祀られているのは寿老人。
寿老人は鹿をお供にしているというのだから、革堂の由縁にはピッタリなのかもしれない。古のポケモントレーナーってやつだな。(いや、違う)
▲都七福神巡りの一つ、寿老人。
▲北の山々にはまだ雪が残っていた。
今回は用事を2件済ませて、3つのポイントを回るという、とても充実(?)した内容だった。
かなり久しぶりにシューズを履いて走ったので多少落ち着かないところはあったけれど、約14キロ、天気も良くて楽しく走ることができた。