本日はここ五条大橋からスタート。五条大橋と言えばこいつら、牛若丸と弁慶。二人が橋の上で戦ったというのは有名だけど、実際に戦った橋はここより一本北にある松原橋だそう。今はこんな感じでメモリアル銅像が立っている。
ここから五条通りを西へ数百メートル、堺町通りを北上すると左手に見えてくるのが、今回ひとつ目の目的地である「鉄輪井(かなわのい)」だ。
▲このなんのへんてつもない路地が目印。
▲左手にアルミサッシの扉がある。言われないとわからない場所。
▲その手前に申し訳程度の碑石。
▲扉を開けて中へ入る。京都の街中ではあるあるの風景。
鉄輪井
細い細い路地を入っていく。路地の両側はもちろん民家なので、入る時は静かにしよう。奥の方までいくと、これまた民家の玄関があるんだけど、その中にひっそり隠れ家的にあるのが命婦稲荷社と鉄輪井。
▲町内の氏神である命婦稲荷社の入り口。ほそいしせまい。
▲家内安全、商売繫盛の神様らしい。
▲境内は狭いながら手水舎もある。こぢんまりしているけど、きれいに手入れされてる。
▲ちゃんと解説書までおいてくれている。一部頂いてきた。
この場所には「鉄輪の伝説」というのがあって、要約するとこんな感じ。
・ある女が、男に捨てられたことにブチ切れる
↓
・女は自分を捨てた男とその後妻を呪うため貴船神社に行ってレッツ丑の刻詣り
↓
・その際、鉄輪(火鉢とかで使う五徳みたいなやつ)をかぶれば効果抜群だと知る
↓
・そのせいで男は悪夢に悩み、安倍晴明に相談する。
↓
・清明「お前、やばいで。なんとかしたるわー。」
↓
・清明が三十番神を使って鬼になった女を撃退
↓
・その女が息絶えたのがこのあたり
ということで、どうやら井戸はもともとあったっぽいんだよな。
ちなみに三十番神というのは毎日交代で国や民を守る30柱の神様のことらしい。
▲ここが鉄輪井。すでに水は涸れてるとのこと。
この井戸、「縁切井戸」としても有名で、ここの水を飲ますと相手との縁が切れるそうな。
ただ、今は地下鉄工事などの影響で水が涸れてしまったので、水の入ったペットボトルを持ってきて、井戸に置いて祈っては持って帰るという方法もなされてるとか。
そんな感じで、ひどい仕打ちをした相手を呪った挙句、逆に殺されてしまった女性の怨念が井戸の水に影響を与えてしまったのか、ここはそういう場所なのです。
とはいえ、実は僕が参ってる間、隣の民家からずっとテレビの声が聞こえてきていた。なんの番組かは知らないけど、ほとほと和やかな音声だった。そんなこともあって、あまり怖いとか厳かな印象は受けなかった。雰囲気って大事だしな。
丑の刻詣りするような場所でドン・キホーテのテーマソングとか流してたら呪いもディスカウントされるんだろうか。(意味不明)
鉄輪井からさらに北上し、交差する松原通りを西へ向かって走る。
▲烏丸通りの手前にある平等寺。いつかここも紹介したい。
▲現在の京都の中心を南北に貫く烏丸通り。
今回、鉄輪井と京都神田明神を目的地としているんだけど、その途中で気になった神社に寄ってみたので、そこも紹介しようと思う。
烏丸通りを西に渡ってすぐ、左手に見えるのが新玉津島神社(にいたまつしまじんじゃ)だ。
一見、彩度低めの地味めな神社だけど、なんかちょっと気になって入ってみることにした。
▲天気はいいんだけど、ここだけなんか曇ってる感じ…という雰囲気。
▲手水舎はしばらく使われていないっぽい。隣に井戸があってかなり深そうだった。
ここ、新玉津島神社は和歌山県和歌浦にある玉津島神社に祀られている衣通郎姫(そとおりのいらつめ)を勧請(かんじょう)したのが始まりらしい。
ちなみに「勧請」というのは、「神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること」らしい。僕の知らない日本語だ。
で、この衣通郎姫が歌道の神様なんだけど、そういうこともあって、ここに和歌所をつくって「千載和歌集」を編纂したらしい。
そういった由縁もあって、今は短歌、俳句、文章上達祈願に参拝者が訪れるそうな。
▲ここから参拝する。なんか本殿まで遠いな。変なつくり。
▲こちらが本殿。普通に肉薄することはできる。
▲最近は標識にQRコードが書かれてるんだな。便利。
あまりひと気のない神社だったけど、奥の社務所にスニーカーが一足おかれてた。もしかして和歌の教室なんかやってたりするのかしらん。
自分にはあまりご縁のない神社を離れ、さらに西へまっすぐ。といっても2ブロックしか離れていない目と鼻の先にもうひとつ興味そそれられる神社を発見した。
▲さっきの場所からいくらも行ってないこの道の右側に…
▲連なる鳥居を発見!せまっ!ほそっ!
亀山稲荷神社
▲数本の鳥居を抜けると奥にあるのが本殿。
このあたりはもともと亀山藩の京屋敷があって、亀山藩邸の鎮守の神、白瀧大明神が祀られていた。当時は松原通りから一本北の高辻通りまで、この一帯が敷地だったようだ。
明治維新の神仏分離令で大泉寺花月亭の鎮守の神、花月大明神と合祀されて移転し、今のカタチに至っている。
▲祀られているのは白瀧大明神と花月大明神。
▲真新しい狐の像と朱色のコントラストが映える。
▲こんなところにも賽銭泥棒はいる。
この神社にも解説書がおいてあったので一部頂いてきた。確かに、そうやって伝えていかないと、どんどん忘れられていくもんな。
ちなみにこのあたり、中野之町(なかののちょう)って言うんだけど、八坂神社の氏子圏の南限、伏見稲荷の北限になっている。
▲亀山稲荷神社を後にし、新町通りを北にあがる。
▲新町通りから綾小路通りを西入ってしばらく行くと、膏薬辻子(こうやくのずし)という路地がある。
▲こんな感じで趣ある小道だ。
▲このあたりで、かの空也上人が道場を開いたともいわれている。
当時の京都で供養に東奔西走していた空也。彼がここに供養の道場を開いたことに由来して、「空也供養」→「くうやくよう」→「こうやく」→「膏薬辻子」という名前になったと言われている。「崇徳院」が「人喰い」になったのと同じだな。
▲かぎの字状の小道を進んでいくと、今回のもう一つの目的地がある。
京都 神田明神
神田明神といえば、東京は御茶ノ水にある有名な神社だ。近くの聖橋から見る線路は撮り鉄でなくともテンション上がるスポットでもある。
そんな神田明神が実は京都にもあると知ったのは、ここ最近のこと。
そもそも、神田明神とは何なのか…という話になるとちょっとややこしいんだけど、もともとは伊勢神宮にまつわる神様の田んぼを鎮めるのが始まりなんだとか。
その神社であの平将門を供養したことで、何となく将門関連の神社という印象になった感じ。
▲しっかり神田明神と書かれている。
▲カエルが置かれているのは、将門の首が関東へ帰ったことに由来している。
平将門は関東の武士で、祖父は平高望(たいらのたかもち)という人物。高望は平安京に遷都した桓武天皇の孫なので、将門は皇族の血筋ということになる。
その後、いろいろあって新皇を名乗った将門は、当時の朝廷から謀反と判断されて殺されてしまいます。
で、その首が七条河原で晒し首になったというわけ。ちなみに記録されている中では日本での晒し首一番乗りだそうな。
▲中はそこそこ狭い。なぜか天井がカラフル。
その首が故郷である関東へ飛んで行って、祀られてるのが東京にある首塚。その首塚から近かったということで、神田明神で将門が祀られるようになったらしい。
ちなみに前述した、空也がこの場所で供養をしたのは将門だと言われている。ということは、京都の神田明神の方が本家なのか?と思ったり。そうだとしても、なんで東京で将門が祀られている神社と同じ名前なのかと思ったり。
そういうのって誰か知ってるのかな。解説書とかおいといて欲しいな。
▲将門の家紋と言われている相馬繋ぎ馬(そうまつなぎうま)。
▲なんとセンサーライト、防犯カメラ、エアコン完備。
▲石畳に趣ある建物。雑貨屋さんや食べ物屋さんもある。
平将門といえば日本三大怨霊のひとりだけど、京都の町屋にあまりに馴染んだオシャンティーな外観と現代風な境内(室内?)におどろおどろしさは皆無だった。
鉄輪井といい、今日は内容と雰囲気がちぐはぐな印象の訪問になってしまった。
その後、用事を済ませて京都駅でフィニッシュ。今回、けっこう街中を走ったんだけど、何か所か訪れたいスポットが見つかった。寒くて人が少ない間にまた行っておきたい。