「座右の銘」の反対語を何というか知らないけど、僕にも好きじゃない言葉がある。
それが「同調圧力」だ。
日本は島国で村社会だからとくにその傾向が強いと思う。大多数と異なることをやっている人に対して概して冷たい。
それならまだしも、自分たちと同じことをするよう強要したり、まわりと異なることをしている人を攻撃することもある。
全く意味がわからない。本当につまらないことだと思う。
逆に周りと同じじゃないと安心できないとか恥ずかしいとか、同調できないことをネガティブにとらえることもまたしかり。
「みんながそう言ってる」とか「みんな持ってるから」とか、往々にして会話に登場する謎の集団「みんな」。
時に安心材料として、時に説得文句として、はたまた攻撃方法として…あらゆる場面で活躍する魔法の言葉、「みんな」。
そんな文言でつめよられても、はっきり言って So fxxking what? だ。
のっけからやや憤怒気味で筆を走らせてしまったが、あらためて本書の話。
まず目に飛び込んでくるのは帯に書かれたキャッチコピーだ。「君たちはどう生きるか」を読むとバカになる!…な、なんだって!?
うわー、もう読んじゃったよ~
ってそういうことじゃない。筆者の考えでいくと読んだらバカになるのではなく、そもそも日本の大多数がバカなのだ。
基準は誰がつくるのか
著者、中田氏は日本人ではあるがイスラム教徒だ。日本人ムスリム(イスラム教徒)は総人口の1%以下と言われているので、かなりマイノリティといえる。
そんなポジションから、中田氏は過激とも言える考え方、口調で声高に日本社会を批判する。偏りがあるので読む人を選ぶかもしれない。
物事には「こうすべきだ」とか「こうした方が良い」とか、よりベターなことがある。ただ、「何を基準にして良いのか」ということが問題なのだ。
それが日本の場合は多数決だという。みんながそう思ってるから、みんながそうやってるから…それが基準になっている。
じゃあ、その多数の意見は間違っていないのかというと、もちろんそうじゃない。ただ多くの人がそう思ってるだけのこと。
つまりその基準は幻想であって、ただのいち意見であるにも関わらず、あたかも正しいと思ってしまうことがバカなのだ。
じゃあ、イスラム社会はどうなのかというと、イスラム教には絶対神がいる。絶対神だからその考えは絶対。
つまり、ムスリムの基準は神が作ったものであり、それに沿うことが正しく、反することがバカという明確な答えがある。
バカであることを理解する
「自分がバカであることを理解し、分相応に振る舞いなさい。」と中田氏は言う。
あたかも「お前はバカだ」と言われているようで少々気に障るが、まあ、バカではない!と言い切れないところもあるので、あえてバカとしよう。
…でも、あまりバカバカ言うのも品がないので、別の言葉を使っていこうと思う。
仮に、自分の能力が低いにも関わらず、まわりから「やってみなよ!」と言われた場合。それに挑戦するのは正しいことだろうか。それとも間違いだろうか。
ここで言いたいのは正否ではなく、本人はきっと失敗する。そしてそれは不幸を誘発するということだ。
日本の風潮として、大衆を「乗せる」ことがある。この「乗せる」ときに使われるのがあの言葉、そう「みんな」だ。
「みんなやってる」、そう言われると自分もできる気がする。「みんなが食べてる」、じゃあ自分も食べなきゃ。
テレビなんてものはその存在自体が「みんな」だ。情報番組でこれが健康に良いなどというとこぞって買いに走る。
確かに、はたから見てると滑稽だ。
それに金銭(商売)が絡んできたらいよいよタチが悪いし、乗せられる人はますますおめでたい。
自分もそういう「幻の基準に踊らされる危険をはらんでいる」ということをあらためて理解する必要がある。
自由は幸福なのか
大多数の日本人が宗教にしばられた生き方をしていないので、我々からみるとムスリムの方が戒律にしばられていて不幸ではないのかと思ってしまう。
しかしこれも考え方ひとつだと思う。ということを『サトコとナダ』という漫画で気づかされた。
ムスリムのナダは一日5回、メッカに向かってお祈りをしないといけないわけだが、日本人のサトコにはそれが大変なことと映っていた。
しかし、逆に考えると一日に5回、祈りながら自分と向き合う時間が持てるし、お祈りのあとにティータイムがあったりして、一日を豊かにしてくれてるんじゃないかと考えなおす。
一夫多妻制にしてもそうだ。我々の感覚ではモテ男が女性をはべらかすイメージだが(ぼくだけ?)、そういうのとはおそらく違う。
イスラムでは持てる者が持たざる者に与えるという決まりがある。
つまり、めとった妻とその子供は全てその男性が面倒を見なければならない。
そんなことは並外れた経済力、包容力がないと無理だ。共働きの僕にできるはずもない。
日本では恋愛も婚姻も自由だ。だけど3組に1組が離婚しているし、残りの2組が幸せかというと全てではないだろう。
表現の自由、職業選択の自由、日本には自由権がある。だけど、その権利が幸せに直結するのだろうか。
不自由が幸福とは言わないが、「自由が幸福」というのは「みんな」が作り上げたただの幻想だ。
中島みゆきも「見返り美人」という曲で、「自由はひどい言葉」と歌ってる。
僕たちはどう生きるか
最終的に「賢い人にならって生きていく」ことが最も賢い処世術だと中田氏は考える。
しかし自主性の無さや他力本願的な意味合いから、にわかには受け入れ難い考えだ。
じゃあ、どうする?
絶対神のいない日本では絶対的な基準はなく、どれも正解だし間違いでもある。
まさに、みんな違ってみんなダメ、だ。
だから、そのことを理解して、多数派にあぐらをかいてはいけないし、マイノリティだろうが胸を張っていればいいと思う。
つまり、考え方は自由なのだ。
裸足で走ろうが靴履いて走ろうが、ロードだろうがトレイルだろうがいいじゃない。
自由とは幸福への道しるべではなく、選択肢を許容する懐の深さなのだと思う。