右足の幅がFでした。

サブ6ランナーかく語りき

足るを知るってことっすかね【読クソ完走文】ぼくたちに、もうモノは必要ない。/佐々木 典士

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先日、娘たちのために部屋を作った。広くない我が家でもうひとつ子供部屋を作るのは挑戦的ではあったけど、年頃に向かう娘がいたのでは仕方ない。

本当はひとり一部屋が希望だったようだけど、そこは2人でシェアしてもらうことで落ち着いた。

問題は半物置のような部屋を子供部屋にしたため、そこにあったモノというモノが我々夫婦の部屋へ押し込まれたことだ。

そんなモノがあふれる如何ともしがたい状況に嫌気がさして、ミニマリストに教えを乞うことにした。

 

ミニマリズムは哲学

ミニマリストとは極端にモノを持たない人たちのことだ。所有物が少ない、ただそう思っていたけど、実際はそれだけではないようだ。

例えば、着る服が一着しかないと迷うことはないけど、十着も持っていたら何を着るか迷って時間をつかってしまう。

全く使わないけどなんとなく捨てられないものをため込むことで、本当に必要なものを探す手間が掛かってしまう…などなど。

モノが多いとそれだけアクションやコストが付きまとう。それらを減らして煩わしさをなくそう、そのためにモノを減らそうというもの。

じゃあ、煩わしさがなくなったらどうなるのか。ひと言で言うと、心にゆとりができる。イライラしない。穏やかでいられる。

つまり、それは人生を過ごす上での幸せじゃないか。

極端な図式だけど、幸せになるためにモノを減らすというのがミニマリズムらしい。

 

所有物は自分を表現するツール

年齢を重ねたせいか、最近は複雑なことが苦手になった。できることならシンプルな方がいい。

あと、やりたくないことは極力やりたくない。自動化できるならそうしたいし、余分な作業は思い切ってやらない。

主に家事に関することになるのだけれど、そのあたりは以前にも書いたことがあるのでこちらを参照してもらいたい。

そんなわけで、モノを処分するモードに突入しようとしているわけだけど(まだ突入していない)、やっぱり捨てられないもはある。

僕が若かりしころ、収集に心血注いだCDたちだ。こっそりクローゼットの奥に隠していたのをこのタイミングで家人に見つかってしまった。

正直、きょうびCDを聞くことはほとんどない。実際、もう10年以上聞いていないCDが大半だ。

それでも捨てられないのは、それが自分というものを表しているからだと著者は言う。

自分というもの、いわゆるアイデンティティーという目に見えないモノを可視化するツールとして、僕の場合CDが当てはまるわけだ。

ただ、僕はCDじゃないし、CDも僕じゃない。当たり前だけどね。

そういう幻想を断ち切る心の作業がミニマリズムへの道となる。

 

今回、佐々木氏の著書とは別にもう一冊持たない幸福論という本も合わせて読んだ。

その著者、pha(ファー)氏はミニマリストだと言及していないが、考え方としては同じだ。

その二人がモノを整理する際に、奇しくも同じ人物を挙げていた。それが片づけコンサルタント近藤麻理恵さん、通称「こんまりさん」だ。

「こんまり」という響きが「こんもり」に似ていて、その情景から僕の中では「もっこりさん」に変換されている、ということはどうでもいい。

実はすでに彼女の著書は2冊ほど読んでいる。そのモノに対し、ときめくか否かを処分基準にする片付け術だ。

つまり、結局のところモノが少なくても自分が必要だ、好きだと思うものに囲まれて暮らすことが大切なんだと思い知らされる。

 

ミニマリストと家族の関係

ただ、ときめくときめかないに関わらず捨てられないモノもある。子供たちの記念物だ。

へその緒なんて捨てようがない。現物を見ても全くときめかないが、これを捨てたら親として何か大切なものまで失う気がする。

ここ数年前から、僕は楽に生きる、シンプルに生きるということをうっすらとしたテーマにしてきた。

40過ぎると、だいたいこの先の人生が見えてくる。正直、この後、僕が私財を投げ打って月旅行に行くことはできないだろう。

だから、そういう物質的な方向性ではなく、精神的に豊かに思えるような暮らしがしたい。お金なんかはちょっとでいいのだ。

そう思って今回も彼らの著書を読んだわけだが、少なからず参考になるところはあった。

以前に読んだ「自作の小屋で暮らそう」もしかり。
しかし、「年収90万円で東京ハッピーライフ」という本を読んだ時には何かしらの違和感を感じた。

直感的にこれは自分が目指してるものではないな、という思いだ。

そこを明確に言語化できていないのは自分でももどかしいところだけど、ひとつはっきりと言えることがある。

今回挙げた著者は全員独身なのだ。

極端な話、自分の身一つなら何とでもなる。家系の前後を断ち切って「自分ひとり世代」として生きるなら、今の日本で住むのはたやすいと思う。

その「たやすさ」を求めることを目的として彼らは生きているのだからそれはそれで良いのだろう。

pha氏は60歳くらいでぽっくり逝きたいとまで言っている。楽にのんびり暮らしてそれが破綻する適当なところで投了ということか。

その延長上にミニマリズムがあるとしたら、着地点が異なる僕が同じようにミニマリズムを極めるのは無理だろう。

我が家は5人家族だ。ミニマリストの洗濯物の量とは訳が違う。とくに娘二人が保育園に通っていた時の洗濯物は尋常じゃなかった。(保育園はやたらと着替える)

大袈裟ではなく、彼らミニマリストの洗濯物半月分くらいの量を毎日こなしていたと思う。

お米を炊く量も牛乳の消費量も回転ずしのお皿の量もミニマリスト1人と育ち盛り3人がいる5人家族とでは何もかも違う。

そういった意味で彼らのスタイルとは根本的に異なるのだ。

ただ、同じ道はトレースできなくても、人が多いからこそ、無駄を省いたミニマルな生活スタイルが求められるのもまた確か。

僕が知る限り、捨て変態のゆるりまいさんが子育てミニマリストの代表か。そちらを参考にした方が良いのかもしれない。

 

捨てる捨てないは気持ちの問題

佐々木氏は「物欲に限界はない」と言っている。確かにその通りで、モノがあふれる現代社会、欲しいものはいくらでもある。

しかもどんどんグレードがアップして、1万円の時計では飽き足らず5万、10万と値段も高くなっていく。

ということを万事に当てはめると、モノが増えるのは必然だし、もっと欲しいという気持ちに歯止めがかからない。

時間を確認するだけなら100均の時計でもいいし、何なら携帯を持っていれば時計はさほど必要ない。

でも、それでは気持ちがおさまらないから高い時計が欲しくなる。

時間を確認するという手段は持っているのに、それより時間を確認するための付加価値の方へ力を入れてしまう。

時計にこだわるのが良くないと言っているのではなく、モノへの執着が止まらない状態、つまりいつも飢えた状態でいることが良くないのだ。

前述したが、これらは「気持ちの問題」である。気持ちを整える、それがミニマリストへの第一歩だ。

本書には捨てられない人のために捨てる方法が記されている。多少、説得されている感は拭えないが、こういうのは思い切りが大切だ。

にわかミニマリストを気取っている今のうちに、僕も部屋を整理したいと思う。