「山屋」という響きに異様なほど憧れを抱いているのは、自分が山屋でないからに他ならない。
お互いのことを知らなくてもそれが山屋同士であれば、「俺たち山屋は…」という言葉に共感できる不可視な共通点がうらやましい。
若い頃から3000m級の山を踏破し、冬の雪山にも果敢に挑戦し、山好き、登山家の最上級である「山屋」。
低山ばかりうろついている僕が今後、山屋になれることはないだろう。
そんな残念な僕を肯定してくれるような内容が、本書「低山手帖」だ。
著者の大内氏は低山の魅力を伝える言わば低山宣教師。(とは言え、もちろん山屋でもある)
そんな著者がセレクトした全国の低山が紹介されており、低山派の僕としては非常に興味深い内容だった。
低山の良いところは、その低さから人間の営みと関わりが深いということだ。
神社仏閣があったり、史跡があったり、何かとストーリーが付随する。「低山歩きは知的な大冒険」と記されているが、全くその通りだと思う。
僕がよく通っている大文字山然り、比叡山や愛宕山も低山だけど、お寺や神社があって、信仰や歴史、人々の暮らしに触れることができて楽しい。
ストイックにピークを狙う登山とは異なるアプローチがあるということを実感できる。
▲ブログを下書きした翌日、比叡山に行ってきた。
僕はお寺や神社を調べるのが好きなので、その流れで風土的なことを知ることが多い。
でも琵琶湖の竹生島のエピソードは本書で初めて知った。
滋賀県の琵琶湖北部にある伊吹山、その近くにある金糞岳(かなくそだけ)。それぞれの山の神様がどちらが高いか勝負をしたそうな。
僅差で金糞岳が勝ったんだけど、負けて逆上した伊吹山が金糞岳の頭を殴って吹き飛ばし、高さ勝負に勝ったという逸話がある。
で、その時に吹き飛んだ頭が琵琶湖に落ちて竹生島になったというわけ。
そこを「滋賀県最高峰」として訪れるのだから、著者の行動はいとおかし、だ。僕もそういう事をやってみたい。
▲向こうに浮かぶのが金糞岳のアタマ。
実のところ「低山」の基準というのは明確ではないそうだ。
ある書物では1500m以下の山とされているけれど、著者は1000mくらいだと考えている。
とは言え、いくら標高が低くても、登りきるのに手強い山はあるし、まして低山だからといってなめてかかると遭難するケースもあるという。
その点については僕も賛成する。500m以下の山中で道迷いを経験したことが何度かあるからだ。
その時は何とか自力で解決したけれど、著者はそういう人を助けた経験があるらしい。
僕は山へ行く時、いつもの大文字山であっても、必ず方位磁針やファーストエイド、飲み物と何か食べるモノを持参するようにしている。山をなめたらあかんで。
低山経験しかない僕が言っても説得力はないけれど、身近な山でも十分楽しめることができる、ということが本書に記されている。
山屋にはなれないけど、低山屋にはなれるかもしれない。
とはいえ、普段僕はいつも走り抜けるだけで、基本日帰りだ。山の中でテントを立てて泊まったことがない。
ギアを持っていないというのも大きな理由だけど、正直なところ夜の山で過ごすということに抵抗がある。だって怖いし。
でも、今年は暗い中でも走って耐性をつけたい。そして、できることなら小さなテントを買って、山の上で泊まりたいと思っている。
もちろん、低山だけど。
▲低山でも登れば素晴らしい景色が待っている!