年末年始休暇の初日、少し距離を走ろうと思って午前中に家を出る。
どこへ行こうか迷ったのだけど、ドラクエウォークのお土産がゲットできる金閣寺を目指すことにした。
そしてその周辺を散策しようというのが今回のコンセプトだ。
▲出町柳デルタ。寒いから人も少ない。
出町柳から川沿いを北大路通りまで北上し、そこから西へ突き進む。
このあたりは美味しそうなパン屋がたくさんあるので、いつか食べ歩きレポートをしたいくらい。
▲北大路通りの中華店にあったチャーハンを炒めてる食品サンプル。職人技やな。
金閣寺
そうこうしているうちに金閣寺へ到着。金閣寺前のバス停は観光客で混雑している。
さすがは世界遺産、近辺の賑わいも大したもの。
今回、神仏走で取り上げたのだけど、これほどメジャーだと本来はスルー対象のお寺。
目的のお土産をゲットのため、どうしても境内まで入らなければならず、400円の拝観料を払った以上はブログに記載しておきたいという小市民根性なのだ。
金閣寺はその金色の姿が有名だけど、臨済宗相国寺派のお寺で、れっきとした寺院。相国寺といえば足利義満が創建した京都の巨大寺院だ。
金閣寺も銀閣寺も相国寺の塔頭(大寺に属する小寺院)だったりする。
▲ジャーン!金閣寺。確かに実物見ると、おぉ~!ってなる。
僕が金閣寺を見たのは大学生の時に他府県の友人を連れて来た以来。しかもその時まで見たことなかったから、今回は2回目の拝観になる。
誤解を恐れず言うと、僕はあまり金閣寺が好きではない。断然、銀閣寺派だ。
銀閣寺の魅力については実際に行った時に紹介するとして、金閣寺はどうもこれ見よがしの派手な存在感がいけ好かない。
もちろん素晴らしい建造物だとは思うけど、観光客の多さもあいまって、ますますいけ好かない。
結局、順路を進むにも混雑していて時間が掛かり、身体がすっかり冷えてしまった。
▲黄色いおみくじマシーン。普通のも置いていたけど、皆こちらばかり使ってた。
金閣寺で無事にドラクエのお土産をゲットし、そのまま寺を出て鞍馬口通りを真っ直ぐ走っていく。
鞍馬口通りは鞍馬寺への古い参道でもある。とはいえ、現在はただの住宅地だ。
金閣寺の豪奢な雰囲気とは対照的に、このあたりの住宅地は年期の入ったところが多い。ややもすると廃墟のような建物も目立つ。
ただの推測でしかないのだけれど、歴史的な成り立ちがそう思わせているのかも知れない。
上品蓮台寺
そんな住宅街をしばらくいくと大きなお寺に突き当たる。それが上品蓮台寺だ。
お寺の紹介をするの前に、まずはこの地域の説明をしておこうと思う。
前回のブログでも少し書いたけど、京都には三大埋葬地というのがあって、そのひとつがここ、「北の蓮台野」と呼ばれた風葬地だ。
近くに「千本通り」という道があるのだけれど、その由来が千本の卒塔婆を立てて死者を供養したからだと言われている。
ちなみに僕が京都のオススメを聞かれた時、2番目に紹介するのがこの辺り。
▲南北に走る千本通り。
千本通りを挟んで東側には船岡山。西側には、ここ上品蓮台寺がある。
上品蓮台寺は真言宗のお寺なのだけれど、もともとは聖徳太子が母の菩提寺として建立したと言われている。
春は枝垂れ桜の名所としても有名だ。
▲上品蓮台寺の山門。質素な感じが好印象。
▲このお堂は「大師堂」。大師というのは空海パイセンのこと。
▲これが本堂かな。ちなみに絵画などたくさんの寺宝があるそうな。
古く歴史のあるお寺という以外に、僕がとても気になっていたのが、定朝(じょうちょう)のお墓があるということだ。
定朝は平安時代に活躍した仏師で、日本の仏像の基礎を作った人でもある。
彼が完成させた寄木造(よせぎつくり)は後の仏像造りに大きな影響を与えて、彼の弟子から円派、院派、そして運慶、快慶が属する慶派が生まれることになった。
とくに平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像は彼の独自のスタイル、定朝様の代表作にして完成形。
鳳凰を模したと言われるお堂に完璧な仏が鎮座してる、藤原摂政、会心の作。行ってこいや、極楽浄土!!
ま、何にせよ、どんなジャンルでも始祖やパイオニアと呼ばれる人はすごいというお話。
▲平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像。仏像彫刻の理想像とも言われる。
▲そんな定朝のお墓がこちら。感激!でも思ったより小さい。言われないとわからない。
▲この下に定朝が眠ってると思うと感慨深い。てか、ちょっと掘られてる!?
▲埋葬地らしく石仏がたくさん。別の場所にもたくさんあった。
ここ上品蓮台寺にはもうひとつ見所(?)がある。それが「頼光の塚」だ。
頼光とは源頼光のことで、平安時代に藤原氏に仕えた武士の一人。
彼よりも彼の家臣、頼光四天王の方が有名かもしれない。以前、晴明神社の回で紹介した彼らのことだ。
▲墓地の奥にある頼光の塚。別名「蜘蛛塚」。
で、これが何の塚かというと、頼光を襲った土蜘蛛を倒した時の塚とのこと。
余談だけど、その時に使っていたのが銘刀「膝丸」という太刀。源義経も使ったといわれる伝説的な日本刀だ。
上品蓮台寺は墓地も含めるとそこそこ大きなお寺なのだけど、応仁の乱でかなりが焼けてしまったらしい。
安土桃山時代に性盛(じょうせい)上人が十二の子院を立てたというから、やっぱりだいぶ広かったんだと思う。
しかし性盛って漢字だけ見るとすごい名前だな。僧としてどうなのか。
▲残念ながら拝観はしていない。
▲十二の院から「十二坊」と呼ばれ、このあたりの地名になっている。
引接寺
上品蓮台寺から千本通りを南へ数百メートル下ると、商店街のアーケードが途切れたところにお寺が見えてくる。
それが引接寺(いんじょうじ)、通称「千本ゑんま堂」だ。名前の通り閻魔大王を祀っている。
山門がなく手前に駐車場があって近代的なビルが目に入るため、お寺であることを注目しずらいけど、由緒ある古刹であるのは間違いない。
お寺を開いたのは閻魔大王の下で仕事をしていた小野篁といわれている。
▲商店街の合間、ひっそりと奥まった場所にある。
▲本堂には顔パネルが。そこそこ茶目っ気のあるお寺。
千本通りは元々、平安京の中央を南北に走っていた朱雀大路で、ここ引接寺は朱雀大路の北端、風葬地への入口にあたる。
当時は「この世とあの世の境」として認識されており、閻魔大王が祀られている。
ちなみに東の境にある六波羅珍皇寺にも閻魔大王が祀られており、小野篁が地獄へ通った井戸もあったりと共通点が多い。
▲本堂横にある会館。そのせり出したところに閻魔さまがいる!けど、ビニールが汚れて良く見えない。
▲横からみたところ。閻魔像がうっすら見える。
▲サムアップした閻魔さまのスタンプ。
▲スタンプといい、ゆるきゃら風にしているけど、いくら頑張っても題材が閻魔大王なので怖いもんは怖い。
小野篁がこの辺りに野ざらしにされていた亡骸を弔って儀式を行ったそうだけど、当時の京都は神道の都で仏教があまり浸透していなかった。
そこで神道と仏教の間である「十王思想」を持ってきたのが閻魔大王を祀るに至った経緯らしい。
▲本堂で閻魔さまについての説明を聞くことができる。500円から。
引接寺の境内には紫式部の供養塔もある。
どうやら「源氏物語」を書くにあたり、ありもしないウソを書いたことで閻魔様に地獄に落とされ苦しんでいたらしい。
ということを夢に見た円阿上人が式部を成仏させるべく供養塔を立てたのがこちら。
▲建立されたのは1386年。式部が没してからだいぶ建ってるな…。
▲巻物の上に小銭が。隙あらば賽銭を置いてやろうというのは日本人のクセ。
本堂裏の池にはたくさんのお地蔵様が並んでいる。これは朱雀大路から発掘されたものだ。
上品蓮台寺の地蔵群と同じく、当時の亡骸を供養したものと考えられる。
ちなみにお地蔵様の後背が船の形になっているのは「舟形地蔵」と呼ばれていて、あの世に渡るため、船に乗って行くという意味があるらしい。
▲映える地蔵群。
▲龍にも前掛けをしてるもんだからキングギドラみたいになってる。
今回は昔の風葬地に関係が深いふたつのお寺を訪れた。当時の死生観が垣間見えたのはとても興味深い。
平安京が出来る前からたくさんの人が生きて死んだ証明が今に伝えられているということを実感するのは、この歳になると何かくるものがある。
それはそうと、金閣寺から全然走ってない(笑)
というわけで、続きは次回…。