【読クソ完走文】思わず考えちゃう/ヨシタケシンスケ
なにをかくそう、僕は大学時代に思想・哲学を専攻していたのだ。
…なにもかくすことではないし、とりたててスゴいことでもないけど。
思想とか哲学っていうと、「そんなことやって何か意味あんの?」という声が聞こえてきそうだ。いやむしろあるなら僕に教えてほしい。
このご時世、意味もなければ役にも立たない分野なもんで、案の定、僕は就職することができず、しばらくフワフワ生きていた。…だけど、それはまた別のお話。
当時、僕が師事していた教授は少し…いや、かなり変わった人で、国内でひととおりの哲学を学んだあと、デリー大学でウパニシャッド哲学を修得し紆余曲折を経て教員になった。
なんかもう一周まわった感じで、僕らがやっていたゼミも哲学者を調べたり、思想を分析したりというものではなく、教授の出したお題を頭をしぼって解決するという内容だった。
例えば、「魚は痛みを感じるか」とか「徳川家康にラジオを教える」とか「ほんやくコンニャクの限界と欠点」とか…
こんなわけのわからないお題について、大学生がディスカッションする姿を想像してみて欲しい。親が見たら泣くで。
僕はこの内容をこっそり「ポップ哲学」と呼んでおり、日々こんな無意味なことを妄想した挙句、卒業した。今思うとペンギン村みたいに平和な学生生活だった。
さて、本書のはなし。
ヨシタケシンスケ氏の絵本「りんごかもしれない」を初めて読んだ時、これぞポップ哲学だ!と膝を打った。
かわいらしい絵とこんな切り口で押し出せば、ポップ哲学も世のため人のためになるんじゃないか。そう思った瞬間だった。
そんなポップ哲学の伝道師(?)ヨシタケシンスケ氏が、とりとめもないと片付けてしまいそうなことをモンモンと咀嚼して導き出した内容が本書に記されている。
時計の7時がくつ下に似てるとか、トイレの便座を上げる時どこを持つかとか、ホントにささいな、でも共感できるお話。
極小の入口から広大に繰り広げられるヨシタケワールドに、そうそう!とか、いやそうか?とか小さくつっこみながら読むこと必至。そんな感想が出てくるってことは自分も日々、いろいろ考えてるんだなぁとあらためて思わされる。
きっと無意識のうちに考えて、そして忘れてるんだろうな。
そんな著者だけど、「誰かにひどいことをされたら、どうにかしてその人を後悔させてやりたいと思う」とか、ちょっと黒い部分もさらけ出していて面白い。
いやでも、ホントそう思うんだよな。気に食わないヤツは何でもいいからバチがあたればいいのに!とか思うもんな。性根悪いけどそう思うもんな。
それでも読者に嫌悪感を抱かせず読ませるのがヨシタケマジック。
昨今のSNS問題(とくにTwitter)なんかを見ていると、思ったことを瞬間的に発信したり、それに反射的にリプライしたりと言葉の応酬が目に付く。
そんなハイレスポンスな世の中には逆行するようだけど、ヨシタケ氏のように物事をじっくり深く考えて、モヤモヤを整理することはとても大切なことだと思う。
モヤモヤを整理できると我慢ができる。我慢ができると良い意味で往生際が悪くなる。
物事を成就するためには簡単にあきらめてはいけないし、時には土俵際での粘りが必要だ。
思考することで得られる粘りは、その人自身の哲学でもある。
ポップ、ポッパー、ポッペスト。