【読クソ完走文】かぼちゃを塩で煮る/牧野 伊三夫
以前にも書いたと思うのだけれど、僕は丁寧な生活をしている人に憧れる。日常のささいな事にこだわりを持っていたり、旬や季節を大切にするような人だ。
とりわけ、食に対して趣深く接する姿勢はとても素敵だと思う。
念のために言っておくが、何も高級料理をたしなんだり、三ツ星レストランに通ったりということではない。
日々の生活に少しの工夫と茶目っ気で、ほんのちょっと豊かな気持ちになれる、そんな振舞いが理想的だ。
さて、本書の話。画家である牧野伊三夫氏が食に対する自身のこだわりを存分に表現している。ちなみに牧野氏は「かもめ食堂」のかもめの絵を描いた方だ。
しかし、感性の鋭い人っていうのはこんなにも良い表現をするんだなぁ、という文章が随所に見られ、とても共感する。最近の言い方だと、わかりみが深いというやつか。
先日読んだヨシタケシンスケ氏の「思わず考えちゃう」でも同じく感じたのだけれど、誰もが思うであろう些細な出来事を的確に丁寧にわかりやすく表現されている。
あぁ、自分もこんな風に考えてたり、文章書いてみたりしたいなぁと、地平線の先に浮かぶ蜃気楼を眺めるがごとく思ってしまう。
例えば、八百屋の棚に大きな冬瓜が無表情にでんと横たわるとか、
カレーライスはまっ白な空腹のところに入ってきてもらいたいとか、
ワインは葡萄酒と呼んだ方が美味しそうだとかとか。そうなんだよなー。
もうひとつ、そうそうと思ったこと。
ハウス食品のインスタントプリンやゼリーのパッケージにある見本写真の話。
筆者はそれに魅せられて模してみるも、金型などないので湯呑みで作っておかしなことになった、というくだり。
確かに、昭和の一般家庭にそんなシャレオツな金型だとか食材だとかは置いてない。
だから一生懸命考えて、近しくなるように模倣するのだけど、結局、コレジャナイ感が漂うことになる。
美味しいものを食べたら試してみたくなる、そんな筆者の性分にも共感だ。
僕も以前、ロシア料理屋で本場のボルシチを食べてとても感動し、さっそく成城石井でビーツ(ボルシチには必須の赤い野菜)の缶詰を買って、試してみたことがある。
家族からリピートを得られるほどの出来ではなかったけど。
そんなわけで、とりあえず今回もタイトルの「かぼちゃの塩煮」も作ってみた。
▲著書に記載されている方法とネットで検索した内容をアレンジしてみた。
最後にバターを入れてみたのが凶と出てしまい、なんかやっぱりコレジャナイ感があったけど、まあ満足だ。
筆者のような食へのゆるいこだわりはとても憧れる。
我が家は育ち盛りが3人いるので、今は質より量が優先されてしまうのだけど、いつかこんな風にいろんなことに小さなこだわりと工夫を楽しんでみたい。