右足の幅がFでした。

サブ6ランナーかく語りき

【神と仏の長距離走】青龍妙音弁財天 ~ 聖護院 ~ 金戒光明寺 ~ 岡崎神社

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前回、宝鏡寺で少し不思議な体験をしながらも最終目的地である金戒光明寺に向かって引き続きひた走る。

京都御所の北側に位置する相国寺。今回はここを起点に話を進めていく。

相国寺は足利家の威信をカタチにしたようなお寺で、烏丸通りを挟み「花の御所」のちょうど東側にあたる。

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相国寺の本堂。現存する最大の法堂建築だそうな。

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▲境内にある宗旦稲荷。相国寺に住み着いた狐が千宗旦(利久の孫)に化けてお茶をたてたことから祀られることに。

大きなお寺なので、調べれば書くべきことは多くあるのだけれど、今回はスルー。

そのまま東へ抜けていく。

相国寺のすぐ近くに小さな墓地があり、ひときわ目立った墓標に「薩摩藩戦死者墓」と刻まれていた。

薩摩藩と言えば西郷隆盛…というくらいしか思い浮かばない歴史音痴の僕だが、幕末に京都でドンチャンあったことは何となく知っている。

戊辰戦争では京都を舞台に鳥羽伏見の戦いで新政府軍と旧幕府軍が戦うことになった。京都では「前の戦争」と言えば応仁の乱を指すそうだが、幕末以降、京都は物騒な時期だった。

ちなみにこのあたりに「応仁の乱 勃発地」という石碑がある。残念ながら発見することができず。

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▲幼稚園のすぐとなりにこんな史跡(?)がある。園児も興味津々だ。

さらに東へ。そろそろお腹が減ってきた頃合いだったので、出町ふたばの豆大福を買いに行く。

しかし案の定、長蛇の列。もう待ってられない。

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▲店員さんが列の整理に駆り出されるほど店前は大賑わい。

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出町柳福井県の小浜を起点とした鯖街道の到達点のひとつ。

仕方ないので持参していたシリアルバーを食べるため鴨川沿いまで移動。その前に一軒、お寺へ寄ることにした。

 

青龍妙音弁財天

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出町柳デルタの西側にある青龍妙音弁財天。ここは京洛七福神のひとつ、弁財天を祀っている。

正確には 先ほどの相国寺飛地境内・妙音堂というらしい。鳥居はあるけどお寺だ。

ちなみに京都には「都七福神」「七福神巡拝」「京の七福神」「京洛七福神」「京都七福神」と5つの種類がある。

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▲技芸上達云々と書いてあったので芸能の神様っぽい。

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▲弁財天の使いであるヘビの絵。なかなかにシュール。こういうの嫌いじゃない。

ここ青龍妙音弁財天の住所は青龍町という。これは御所の東に位置するためで、御所の北側には玄武町がある。

こじんまりとした境内なのだけど、手入れが行き届きとても綺麗なお寺だ。

訪れる度、ご住職が水撒きや水槽の水換えをしている場面に遭遇するためか、境内はいつも潤っている(湿っている)印象がある。

とりあえずお線香を一本上げていく。

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大文字山を臨みながらシリアルバーを食べる。この後、右下の女性のパンがトンビにかっさらわれることになる。

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▲お約束の出町柳デルタ。天気も良く人も多かった。

今出川通りを東に進み、東大路通りと交差する百万遍から南へ入る。ここはちょうど京都大学のキャンパスがある場所だ。

昔、バイトで京大の新校舎の黒板を取り付ける仕事をしたことがある。そういうこと以外で校舎に入れる機会は、僕の人生にはない。

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▲京都が世界に誇る学び舎、京都大学

東大路通りを南下していくと新しいキャンパスがあり、さらにいくと異質な空間が現れる。それが京都大学名物の「吉田寮」だ。

映画「鴨川ホルモー」にも登場した、寮生が自治する自由領域。好き嫌いがパッキリ分かれると思うが、令和の時代にも昭和を色濃く残す独特の建物だ。

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▲とはいえ、かなりキレイになったので怪しさは感じない。

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▲と思ったけど、奥にある棟はかなり年期が入ってる。

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▲京大名物の立て看板。撤去された後、こんなところに放置されていたのか。

吉田寮を過ぎてさらに南へ。丸太町通りに出る一本手前の春日北通りを東へ入る。このあたりの住所は聖護院。

そう、聖護院大根の聖護院だ。ちなみに千枚漬で使われるカブラは聖護院蕪という。

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▲通りには聖護院八ツ橋の本店がある。

 

聖護院

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▲聖護院は修験道の寺院だけど皇室とのゆかりも深い。

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▲節分などの際、ここで護摩を焚くそうな。

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枯山水のお庭。きれいに整っている。

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▲この石がパワースポットらしい。とりあえず座る。

聖護院という名前から何か華々しい寺院という印象を受けるけど、修験道や山伏のお寺であることから、思いのほか質素だ。

そんな聖護院の東側に積善院がある。ここは聖護院の塔頭(たっちゅう)で、今回、特別拝観として不動明王立像が公開されていた。

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▲「五大力さん」でも知られる。醍醐寺五大力さんとはまた別。

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▲木造で趣がある。奥にあるのが本堂。

本堂の西にちょっとした庭があって、そこにお地蔵さんがひっそりと立っている。

あまりに適当な感じでスルーしそうになったけど、よく見ると「人喰い地蔵」の文字が目に留まる。

ただ、その説明はなく「no photography」とだけ書かれていた。屋外にある仏像に対し撮影禁止というのはあまり聞いたことがない。

ちょっと気になったので帰宅した後、この地蔵について調べてみた。

ここで前半の崇徳天皇が登場する。

崇徳天皇崇徳院)は後白河天皇と権力争いをして負けてしまう。これが保元の乱

その後、讃岐へ配流されることになるのだが、ここで反省し、むちゃくちゃいっぱい写経してそれを京都に送って寺に収めて欲しいとお願いする。

しかし後白河は意地悪なことにそれを送り返したものだから、崇徳ブチ切れ、「呪ったるー!」と言いながら死んで怨霊化したという話。

その後、火事やら陰謀やら立て続けに起こったので崇徳院の呪いや!と話はもちきり。供養するために設置されたのが先ほどの地蔵だそうな。

なんで「人喰い」かというと、崇徳院→すとくいん→すとくい→ひとくい→人喰いと変化したからというのが有力な説。

しかし、ここからが不思議な話で、このお地蔵さんに関わると何かしら良くないことが起こるらしい。

だから屋外に安置されているにも関わらず写真を撮らないように注意書きがされているのかもしれない。

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▲境内には小さな人形や猫の置物がある。たぶんご住職の趣味だな。

ちなみに、先ほどの崇徳天皇だけど、彼の霊を慰めるために建てられたのが前半に登場した白峰神宮だったりする。

 

金戒光明寺

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「くろ谷さん」の愛称でおなじみ、最終目的地である金戒光明寺。聖護院から東に進むとすぐだ。

これまで何度も訪れたことのあるお寺だが、今回どうしても来たかったのは山門に入れるから。

前述している「天皇陛下御即位奉祝 春期京都非公開文化財特別公開」のひとつなのだ。

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▲これが金戒光明寺の山門。いつ見ても迫力ある。

残念ながら、というか当然ながら、内部は撮影禁止なので写真で紹介することができないけれど、山門から臨む景色は大阪まで見えるというのだからさすが。

公開されていた「蟠龍図」もお見事だったけど、僕としては釈迦三尊像とそれを囲む十六羅漢像の方が印象的だった。

釈迦三尊像は保存状態も良いのか、胴体の金箔もあまりはがれることもなく、差し込む光に輝いて良い感じに神ってる。

そんな仏と羅漢が、都を見下ろすかたちで安置されているのは、京都の守護を象徴するこの寺ならではの姿だと感じた。

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▲境内は約四万坪と広大だ。京都守護職を任命された会津藩千人の拠点となった。

幕末の京都が物騒だったというのはすでに語ったが、その対策として徳川幕府により設置されたのが「京都守護職」だ。

その京都守護職に就いたのが会津藩士。そういう所以もあって、墓地には会津藩士のお墓がある。

会津藩といえば旧幕府軍で、先ほど見かけたのは新政府軍の薩摩藩の墓。一日に両方お目にかかるのは何かの因果か。

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▲墓地には参道案内まである。

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▲ここが会津藩士のお墓。当たり前だけど厳かな空気が流れてる。

ちなみに、当時の京都守護職松平容保に市内取締の命を受けて結成されたのが「新選組」だ。金戒光明寺新選組発祥の地でもある。

そんなくろ谷さんには大きな墓地がある。それはもう広い。広すぎて迷うくらい広い。有名な人のお墓から名も知らぬ無縁仏まで様々。

あまり人様のお墓を写真に撮るのはほめられた行為ではないと思うが、かなり古いものから個性的なものまで興味深い。

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▲中央に見えるのが山門。その周りはずっと墓地だ。

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▲有名なところではお江のお墓。大河ドラマ上野樹里が演じていた徳川秀忠の妻だ。

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▲無縁仏ピラミッド。こんな形にする必要があるのかないのかわからないけれど、同じようなものがいくつかある。

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▲こちらも無縁仏群。小さな墓標から陸軍将校のものまでありとあらゆるお墓が集まる。

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▲なぜか鳥居の墓標。いや何かのモニュメントか。なんで?

金戒光明寺には知る人ぞ知る仏像がある。それが「アフロ仏陀」と呼ばれる石仏だ。

正確には「五劫思惟阿弥陀仏」という。「思惟」とは深く考えること。

「劫」とは時間の単位で、一劫とは「四十里立方(約160km)の大岩に天女が三年に一度舞い降りて羽衣で撫で、その岩が無くなるまでの長い時間」のこと。

五劫だからその5倍、それくらい長い時間深く考えたため、螺髪がアフロみたくなったというのがこのお姿らしい。

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▲おなじみ「アフロ仏陀」こと「五劫思惟阿弥陀仏」。

それくらい長い時間考えるんだったら、同じ時間をかけて世界中のゴミを拾えばもっと人のためになるんじゃあないか…と思ったり思わなかったり。

江戸時代に作成されたらしいが、これを作った仏師は何を思ってこれを作ったのか。是非とも話を聞いてみたい。そして言いたい、グッジョブ!

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▲なんとなく頭上から撮ってみた。

 

岡崎神社

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これまで、争いやら呪いやらネガティブな案件が多かったような気がするので、最後に癒しスポットに寄ってみる。

それがここ、岡崎神社。うさぎを祀る珍しい神社で、卯年の僕にはどうにも親近感のある神社なのだ。

足腰神社にご年配が多かったように、ここではウサギの可愛さ目当てか女子参拝客が多い。一応断っておくが、だからといって来たかったわけじゃあない。

とはいえ、さっそく狛兎の前でセルフィってる着物女子を発見。うっひょい!

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▲出た!狛兎!女子がヒィヒイするわな。

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▲境内に並べられた「うさぎみくじ」。インスタ映えしないように撮ってみる。

この神社には「雨社」がある。そう雨乞いの神様だ。実は僕が普段良く行く、大文字山ルートの途中にある雨社大神、もともとはそこに鎮座していたそうだ。

ここ岡崎神社は平安京遷都の際、都の四方に建立された神社のひとつで、東(卯の方位)にあることから東天王と言われている。

ちなみにこのあたりの住所は天王町だ。近くには住友財閥の別邸がある。

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▲お腹を撫でると子宝に恵まれるという兎像。とりあえず撫でる。

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僕が訪れた際、ちょうど結婚式が行われていたようで、境内で集合写真を撮っていた。

その横をそそくさと本殿まで向かったわけだが、白無垢の花嫁を見たことで、僕自身、何か浄化されたような気がした。

そんなこんなで気持ちも軽々と家路についたわけだが、裏腹に脚は重く残り5キロ、拝観した仏のことなど一切思い出しもせず、なんなら呪いの言葉は口ずさみながら帰るのだった。