右足の幅がFでした。

サブ6ランナーかく語りき

【読クソ完走文】伴走者/浅生 鴨

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 大変お恥ずかしいことに、マラソン大会に出場するまで伴走者という存在を知らなかった。誰がどういった経緯で伴走者になるのか、正直今でもよくわからない。

少し調べてみたところ、日本ブラインドマラソン協会という組織があり、そこで登録し、練習を重ねることで伴走者にはなれるようだ。

伴走云々の前に視覚障がい者の方をサポートする、ということが非常に難しい。目の見える晴眼者にとって、目の見えない人の世界を想像するのは困難だ。

その上、走るということになれば難易度はますます上がる。ちょっとした段差を伝え忘れたことでつまずいたりしたら大怪我につながるのだ。

自分の走りで精一杯の僕にとって、他人をサポートしながら走るというのは、今のところ限りなくハードルが高い。

 

さて、本書。ひょんなことから伴走者を請け負うことになった主人公とケガで視力を失った元プロサッカー選手がパラリンピック出場を掛けて奮闘する物語だ。

「目が見える」主人公にとって、「目が見えない」人の感覚を理解するのは非常に難しい。視覚障がい者を前に何度も「目が見える」ことを前提とした言動をとってしまう。

そもそも主人公は「目が見えない」=「走るのが遅い」と認識していた。僕もそうだった。

しかし、視覚障がい者の世界記録は2時間31分59秒。これは全盲クラスの記録で、2007年にイタリアの選手が記録した。

日本記録は2時間32分11秒、もはや世界記録に肉薄するタイムだ。むちゃくちゃ速い。

外部からの情報(視覚)がシャットアウトされた状態でこれほどハイペースで走るというのはかなり勇気がいると思う。

だからこそ伴走者が必要になるのだが、このレベルになると伴走者もかなりの技量を要求されるし、その上、走者へ聴覚による情報提供などのサポートが必要になる。

もはや専門職だ。

もちろん、走るのは視覚障がい者である走者なわけだけど、彼らは外部からの情報だけを頼りに走っているのではない。己の身体とも対話して走っている。

感覚を失うとその他の感覚がするどくなると言われているけれど、視力を失った選手は前よりも自分の身体の感覚に敏感になったと言っている。

例えば両手を前に出した時、左右どちらの指が前にあるのか、身体からどのあたりまで離れているのか、視覚情報で処理するところを感覚で補わなければならない。

さらに、目では確認できない僅かな上り坂を感じてペースを調整したり、風向きや気温による身体の変化についても敏感だ。

そういった身体に対するするどい観察力はスポーツをする上でとても大切だと思う。今どの筋肉に負荷が掛かっているとか、身体をどのように動かせば効率がいいとか。

それは何も視覚障がい者だけができることではなく、晴眼者である我々も同様のことができるはずだ。

僕は裸足で走ることが多いのだけれど、裸足で走ると足裏の感覚は間違いなく敏感になる。

シューズで走っていた時は足裏全体を平面としてとらえていたけど、実際は接地するポイントや離地するポイントが異なっている。

感覚的に言うと、素手とグローブくらいの違いがあると思う。

感覚が敏感だとどうなのか?という話はまた別の機会にするとして、外側(視覚情報)への注意だけでなく、内側への注意も意識したいところだ。

 

主人公たちはかなりハイレベルなところでマラソンをしており、その展開には読んでいるこちらもハラハラするものだった。

晴眼者である主人公がコースの解説や他のランナーの情報を視覚障がい者の走者へ伝えるセリフが多いのだけれど、それによって読者も情景が想像しやすい。

フルマラソンを経験したことのある人ならなおさらだ。30キロを越えたあたりの展開と残り2キロのスパートは息が苦しくなる。

 

冒頭にも書いたけど、僕は伴走者ができるようなレベルじゃないし、これを読んで自分もやろう!とは思わない。

だけど、大会で視覚障がい者ランナーを見かけたら、彼らと同じ温度のエールを伴走者の方にもおくりたいと思う。