右足の幅がFでした。

サブ6ランナーかく語りき

【読クソ完走文】獲物山/服部文祥

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「人間が偉いのか?」そう表紙に書かれた本書。何と比べて偉いのか、何に対して偉いのか、何をもってして偉いのか。という考えを言及、というか自ら行動し、身をもって体現しているのがサバイバル登山家、服部文祥氏である。
行動を伴わない思想は哲学でなく屁理屈だ。と僕は常々思っている。そういう意味で服部氏を尊敬しているし、かっこいいと思っている。しかしあまりに僕の生活から離れ過ぎていて、大リーガーをテレビで見ているような、そんな常人離れした印象があるのも確かだ。
『狩猟山』はアウトドア雑誌『フィールダー』に掲載された記事をまとめたもので、過去に読んだ記事もいくつかある。ミドリガメ鍋を家族全員でつつく様子は衝撃的で、もはや異文化の域だ。通常の狩猟はともかく、子鹿を蹴り倒す行動などは度肝を抜かれる。そんな派手な行動からびっくりどっきり人間のイメージが先行するが、本書は狩猟を通じて、その意義や食に対する考え方を問う、極めて深い内容になっている。
「その食料を殺したのは誰ですか」と問う。「食べる」という娯楽的な側面もある行動に「殺す」という穏やかでない言葉が続く。なんとも違和感ある表現ではあるけれど、多くの人が気にしていないだけで、当然のことを言っているにすぎない。もちろん普段、誰が殺したかなんて考えずに肉も魚も口にするわけだけど、「殺す行為」は間違いなく真実としてそこにあるのだ。
いのちの食べかた』というドキュメント映画を見た時にもそこそこ大きな衝撃を受けた。ベルトコンベアーに乗った牛が何かの装置を通り抜けると死んでいる。そのまま解体され、あれよあれよと肉になる。吊るされた牛から大量の血が流れている横で作業員が雑談する姿はまさに「食べる」と「殺す」をコントラストとして表している。
映画を見て少なからず食材について知ることができたけど、それはあくまで「人任せの実態」を知っただけ。服部氏は、その過程までをも己の責任、生命が生きる責任として狩猟をしているわけだ。
しかし、物事はそれほど単純じゃない。命を奪う情景や感覚に「善」に分類されるものは何一つ見出せないと服部氏は言う。それでも殺す。

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同氏の著書に『息子と狩猟に』という小説がある。ストーリーはシンプルながら、ミゾオチに鉄球がえぐり込んでくるような展開で、その問いを投げかけてくる。
生物とは生きているモノのことを言う。生きるためには食べなければならない。食べるためには殺さなければならない。つまり、生きるとは殺して食うことだと言える。だけど、他の命を犠牲にして自分の命を優先していい理由にはならない。小説では、その理由はわからず、もはや受け止めるしかないと綴っている。
この問題について、服部氏は"暫定的な"解を持っていると言う。それについてはわからないが、どのような答えであってもサバイバル登山を実践する同氏の言葉であれば、屁理屈ではない、深く納得できる哲学だと思う。
僕のように文明に飼い慣らされた現代人が言っても何の説得力もないけど、人が生きるために何かを殺していること、そしてその命に対して責任を持っていること、つまり我々も自然のサイクルに組み込まれた生物のひとつだということを自覚すべきなのだと思う。
狩猟に出た服部氏は、同行した子供に対し、「シカがいたら教えてくれ。そしたらお前のせいでシカが死ぬからな」と言う。乱暴な物言いかもしれないが、その裏にとても大切なメッセージが込められている。僕は子供たちにこんなメッセージを伝えることができない。いや、むしろまず僕が服部家の子供になりたい。そして獲れたての新鮮なお肉を頂きたい。