右足の幅がFでした。

サブ6ランナーかく語りき

【読クソ完走文】山伏と僕、山伏ノート/坂本大三郎

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山伏と言えば法螺貝。大変失礼なのは承知の上なのだけれど、法螺貝といえばどうしても「タケちゃんマン」を思い出す。強きを助け弱きを憎むアイツである。僕の中ではそれが連想されるので、あの音色を聴くとどうしても笑いが込み上げてしまう。
以前、福知山マラソンを走っていた時、沿道のおじさんが法螺貝を吹いて応援してくれていた。それで鼓舞される人もいるだろうし、心の中で「なんでやねーん!」とツッコんでしまった僕のような人もいるだろう。人それぞれである。

さて、本書の話。兼業山伏(?)として活動されている坂本大三郎氏が自身の修行体験記を中心に記した『山伏と僕』、そして山伏の慣習から我々の文化的ルーツを探る『山伏ノート』の2冊。今回はセットで読んだ。
『山伏と僕』は著者の山伏体験記といった内容で興味深く非常に読みやすい。また著者自身の考え方が中心になっているとはいえ、山伏について理解する入門編としてはわかりやすい内容だと思う。
対して『山伏ノート』は現在の言葉や習慣がどのように今日のカタチへ至ったのかなど、丁寧な解説と共に記されている。「冬」の語源であったり、かつて「馬肉の刑」というものがあったりなど、なるほど全然知らないことが多かった。結果的に著者がいろいろと調べてまとめた調査結果が、山伏文化の魅力紹介とともに、主題を裏付ける要素や説得材料として記載されている。

坂本氏は「みんなで山伏やろうぜ!」ということを主張したい訳ではなく、まして「山伏こそ正義」という極論を唱えているわけでもない。生きていく考え方、スタンスのひとつとして山伏を選んだ彼が最も言いたいことは「豊かに生きていく」ということなのだ。
「豊かに生きる」…わかるようでわからない表現であるし、これこそ人それぞれなのだと思うけど、本書では「人間の身体や精神に背かないような、人間の本性(ほんせい)にそった生き方」としている。

坂本氏の主張として、「人間の本性」という言葉がたびたび登場する。本性という言葉の捉え方もいろいろあるのだけれど、ここではナチュラルな状態を指しているのだと思う。
世界には先住民と呼ばれるネイティブアメリカンアボリジニー、アフリカの少数民族など、太古の昔から自分たちの文化、信仰を守っている人々がいるが、彼らは実にナチュラルな存在と言える。日本にもかつて、神道や仏教が成立する前、自然への畏怖から山岳信仰などのアニミズムが生まれたわけだけど、そういった考えを身近にしていたナチュラルな人々が存在しており、それが山伏として現在に受け継がれているという見解なのだ。そして、それこそが日本人としてあるべき姿ではないか。山を敬い、自然の循環の中で生活する。このことが豊かさをもたらしてくれるのではないか。
とくにこの「循環」という点においては、奇しくも"糞土師"伊沢氏と全く同じことを説いている。アプローチの方法は違えど、同じ結論に至るということはひとつの真理なのだろう。

つまり、「ありのままの世界と向かい合い、生と死の混在する領域に分け入ること」こそが、自らのうちに「豊かさ」を取り込み、人間の本性を躍動させることである。坂本氏はそう言い切っている。

「人間や動物を含めた生き物として尊厳のある生き方がしたい」、そう願う著者は僕と同い年だ。坂本氏は30代で修験の道に入り、己の生き方を顧み、そして山伏として生きることで実践してきた。同級生としてその確固たる信念には敬意を払う以外、思いつかない。
人生折り返したにも関わらず、未だに巨万の富を得てジャグジー付きのリムジンに乗りながらシャンパン片手にお姉ちゃんをはべらかし夜のラスベガスをドライブするヴィンス・ニール的な生活をしたいなぁと願う僕とは大違いだ。


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坂本氏と自分を比較することすらおこがましいし、僕みたいに凡庸な人間が自分の人生観をひけらかすほど見苦しいことはないし、そして凡人の人生観を読むほどつまらない事はないので、もうこのへんにしておく。
だけど、僕が裸足で山を走る時に感じる楽しさや充実感は、案外、人の原初の記憶を呼び覚ます行為なのかもしれない。山伏の修行に興味はあるし体験したい気持ちもあるけど、正直全うできる自信がない。とりあえず今のところは僕は僕なりに自然と付き合っていこうと思う。