【読クソ完走文】才能が見つからないまま大人になってしまった君へ/神岡 真司
本書のタイトルを見た瞬間、胸を撃ち抜かれるような思いがした。はいはーい、オレオレ!それ、僕のことです!僕です!
とまぁビジネス書としては読者にそう思わせれば勝ちなわけで、タイトルに負けた僕はまんまと読んでしまったのです。
「才能が見つからないまま大人になった」ことが何かのフラグになっていて、実はとてつもない大逆転が待っている!…というような内容を期待していたのだけど、全くそんなことはなく。
そもそも、そういう他力本願的な思いで生きているから己の才能なんて見つかるわけもない。それは良くわかってます。あー、長いモノに巻かれたい!
「才能」というとどんなものを思い浮かべるか、それは人それぞれ。決定的に問題だったのは僕の思う才能と本書が定義する才能が全く異なっていたこと。
僕が才能と考えるのは、努力せずとも先天的に授かった能力のようなもの。のび太のあやとり、のび太の早打ち、のび太の昼寝…これらは天が彼に与えた才能だと思う。
逆に本書が掲げる才能とは、「周囲が価値を見出す個性」とある。周囲が価値を認めるとは、社会的な価値、つまりそれが「儲けにつながるかどうか」ということ。
簡単にいうと「得意なことでお金を稼ごう!」ということなのです。ビジネス書だもん、そういう話になるのは当然だよねー。
社会的に認められるには能動的な行動が必要
↑
継続力や創意工夫が必要
↑
好きや得意じゃないと続かない
↑
好きや得意=「才能」を見つけよう!
というわけ。
だから、極論どんなことでも才能になるし、どんなことでもビジネスにつなげることができるのです。
なるほど、理屈はわかった。理解もできる。
でも、自分が求めてた才能とはちょっと違う。なんて言うか、コメカミからビームを出せるような才能が欲しいんだよなー。(←アホ)
僕は平凡パンピー中肉中背中年男子なので、もはや自分の才能を爆発させるのは難しいと思っている。別に卑下してるわけでも謙遜してるわけでもなく、40年生きてきて悟ったと言っていい。
だから、次は子供たちの才能を早期に見極めて、彼らが才能を開花させることができるよう導いていきたいところ。
ただ、後進を育成するにあたって、親の背中を見せることは必要だと思う。スーパーサイヤ人3を見たトランクスと悟天が素直になったように、わかりやすいカタチで親の頑張りを見せないといけない。
僕の場合、それがマラソンや裸足ランにつながっているのです。子供たちが納得するかどうかは置いておいて、まずは自分自身が教える立場であることの裏付けとして、矜持として取り組んでいきたい。
シンプルに言うと「お父さん、すごいやろ!」「うん、とーちゃんスゲー!」という構図を夢見ている。
前回のブログにも書いたけど、裸足とワラーチで走り2年が経った。継続することも才能というのならまだまだこの才能を伸ばしていきたいと思う。残念ながら懐は潤わないけれど。
話は全然翻る。ここ最近どうも活字離れに危機感を覚えたというか、今に始まったわけではないんだけど、スマホ見てる時間が長い気がしてならない。
それが悪というわけでなないけど、これキッカケに今年は活字に触れようと。今どき紙媒体かよ!というのは置いといて、興味ある本は片っ端から読んでいこうと思ってる。
せっかく読むのだから、アウトプットして文章ちゃんと書いてブログの質も上げられたらいいなぁ、という思いもあって、今回から【読クソ完走文】(どくそかんそうぶん)として掲載していくことにしました。
クソみたいな感想なのは表題の通り、走り切ることに意味がある、という解釈、信念のもと、しばらくそっと続けてみます。そんな立春。