右足の幅がFでした。

サブ6ランナーかく語りき

【読クソ完走文】読書の価値/森 博嗣

f:id:iparappa:20180506230733j:plain

本を読んだら賢くなるのか

そもそも僕が最近本を読み出して「読クソ完走文」などという感想(思ったこと)を書き始めたきっかけというのが「活字離れに危機感を覚えた」から。なぜ危機感を覚えたかというと、「本を読む人=賢い」というすり込み的な認識があり、それが前提として「本を読まない=アホ」という考えに至るわけで、アホになりたくない僕はせっせと本を読むことにしたのだ。この短絡的な行動がアホっぽいわけだが。

しかし、よくよく考えると「本を読む人が賢い」というのは僕の勝手な印象に過ぎず、何か明確に確証があってのことではない。子供の頃はよく本を読めと言われた記憶はあるが、本を読んだら賢くなるという理由までは教えてもらえなかった。もしかすると本を読んで賢くなるのは幻想かもしれない。そんな時、本屋で出会った本が今回紹介する「読書の価値」という新書である。

著者の森氏は小説家なわけだが、僕は彼の作品を読んだことがない。しかし今回の本を読んでかなり変わった人だなという印象を受けた。大衆向けの小説を書いておきながら多数派意見にはとことん反発するようなイメージだ。人が勧めた本は読まない、ベストセラーは読まない、小説もほとんど読まない、読書感想文は無意味と唱えるなど、なかなかの偏り具合だ。

とは言え、そこは人気作家と呼ばれる人であるわけで、考え方にはちゃんとスジが通っている。考え方だけではなく、ご本人の行動もそれに基づいているため文句のつけようがない。そんな人が主張する「読書」とは何なのか、本書を読みながらどんどん気になっていった。さすがプロの物書きだ。

学校教育と読書

読書にまつわることと言えば、学校の宿題である「音読」や「読書感想文」だ。もちろん自分もやってきたことだが、ちょうど我が家の子供たちが小学生なので、あらためて目にする機会は多い。これについては僕も森氏と同じ考えで、学校で出される音読や感想文は無意味だと思っている。

まず音読。国語の教科書に掲載された作品を2~3回、声を出して読む。ただそれだけだ。音読する意味を考えてみたが、声を出すことで覚えることができるというくらいか。あとは音の響き、抑揚の美しさを体感できるというのもある。かなり強引だが。であれば、教科書の文章ではなく、もっと有意義な文章を読ませた方がいいのではないかという結論になり、我が家の音読は「声に出して読みたい日本語」シリーズにしている。おかげで子供たちは宮沢賢治平家物語論語など空で言えるようになった。

そして読書感想文について。感想なのだからどんなことを書いてもいいと思っている。「ヤバイ!」の一言でも感想は感想。どんなにつまらない感想でも、本人が感じたことなのだから他人がそれに対してとやかく言うべきではないはずだ。つまり先生は口出しできないことになる。そうなると宿題にする意味がない。逆に先生が口出し(採点)するためには要約させる他ないのではないか。それは結局、国語の問題であって、読書感想文など必要なくなってしまう。

読書によるインプット

「読書をすること」とはどういうことなのか。読書体験の価値(メリット)について、本書では独特の見解がなされている。詳細は割愛するが、なるほど!と膝を打つ表現であった。僕はすぐ人の意見に同調する単純な人なので、以降の読書はそれらを意識することになる。

ひとつ本書に書かれた内容を紹介すると、読書は効率的なインプットだということだ。効率的と書いたのは、テレビでもネットでもインプットができるから。ではなぜインプットが必要なのか。それは知識を増やすためだ。知識を増やすのは「物知り」になるためではなく、その知識を使って考えるためでもある。人が何かを考える時は持てる知識を総動員して物事を導き出す。そのヒントやキッカケが多いほど深く考えられるのは間違いない。本書では少し異なる見解だが、僕自身はそう思っている。

この理論で行くと、「読書することで賢くなる」と言ってもあながち間違いではないっぽい。たくさんの本を読んだ後であれば、さすがに感想文で「ヤバイ!」とは書かないだろう。本書はこうも言う。音楽をたくさん聴いたからと言って演奏がうまくなるわけではない、と。確かにそうだ。本をたくさん読んでもアウトプットしなければ意味がない。というわけで、僕にとってのアウトプットである、この「読クソ完走文」はもう少し続けていきたいと思う。